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上杉鷹山に学ぶマネジメント

ケネディが第35代大統領に就任したとき、日本のジャーナリストたちはこぞってインタビューに押しかけました。ジャーナリストたちの「日本人で尊敬できる人物はいますか」という質問に、ケネディは「上杉鷹山」と答えたと言います。

ところが、誰一人として「上杉鷹山」を知っているジャーナリストはいなかったというエピソードがあります。ケネディがこよなく尊敬した「上杉鷹山」とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

鷹山は1751年(8代将軍徳川吉宗が他界した年)、高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれ、17歳のとき米沢藩主・上杉重定の養子として迎え入れられたことから「藩政改革」の人生が始まります。

米沢藩(山形県南部地方)は豊臣秀吉のころ、120万石ありました。しかし、西軍として参戦した「関ケ原の戦い」に敗れ、30万石に格下げされ、その後、徳川幕府により15万石に減石されます。120万石のときの家臣が6千名、15万石のときの家臣も6千名。つまり、藩の財政が8分の1に縮小したにもかかわらず6千名の家臣を抱え続けていたのです。現代ならば「即・リストラ」ということになりますが、当時はリストラなどは難しかったようです。

石高15万石を今のお金に換算すると、約130億円にもなるそうです。米沢藩の年間収入が130億円であるのに対し、借入金が約400億円もあり、まさに藩の財政は破綻状態で領地返上(破産宣告)を真剣に検討していたようです。上杉鷹山は、そんな状態の米沢15万石の藩主となり、藩政改革にチャレンジすることを決心します。

しかし、名門意識と格式を重んじる米沢藩の風土は鷹山の前に山のごとく立ちはだかりました。鷹山は手始めに「大検令」を出し、自ら木綿の羽織を身にまといました。それまで「武士の衣は絹」という武家社会の常識をまず自ら打ち破り、合わせて自分の給料を8分の1に減らしたのです。藩主のそうした行動を無視できなくなった家臣たちは、しぶしぶ木綿の羽織に替えざるを得なくなりました。ようやく家臣たちの間にも少しずつ危機感が芽生え始めます。

続いて、「一汁一菜(いちじゅういっさい:質素な食事の意味)」を家臣に求め、「ご飯一杯、みそ汁、塩シャケ」が食事の定番とされました。鷹山は生涯木綿の羽織、一汁一菜を守り通したといいます。

さらに、鷹山は「業務改革」を断行します。当時、名目だけのたくさんの要職がありましたが、何と94ものポストを削減しました。加えて「中・下級武士の活性化」を打ち出します。

具体的には、毎日、城勤めしていた家臣の仕事の内容を分析し、必要なときだけ城勤めをさせ、空いた時間を「新田開発」にまわしたのです。つまり、「刀」を「鍬(くわ)」に持ち替えさせ、土まみれにしたのです。これは、中・下級武士たちの危機感を察知した鷹山のカケでもあったわけです。

若き鷹山の改革は、思い切った判断と強いリーダーシップによって順風満帆かのように見えました。しかし、・・・。

米沢藩は、小さな藩に成り下がってはいても名門中の名門であることには変わりありません。鷹山の思い切った行政改革を善しとしない家臣たちもいました。ある日、重役の七家が「七家訴状」を鷹山に突きつけたのです。

45ヶ条からなる訴状は、鷹山の経営方針をことごとく否定し、特に新田開拓は「家臣の9割9分が大反対である。方針を変えなければ、幕府に訴え出る」としてありました。伝統と身分、格式を重んじる要職たちの“クーデター”であったわけです。つまり、名門のプライドを捨てるわけにはいかないという背景があったようです。現代風に言えば、生き残りをかけて変革しようとするトップに対し、重役や幹部たちが「今までの常識や慣習のままでいいじゃないか」という対立と言えそうです。

窮地に立った鷹山は一策を講じます。足軽から家老に至るまで、あらゆる階層の家臣たち500人を城に呼び寄せ、その500人一人ひとりに鷹山が推し進めている改革に対しての意見を求めたのです。これは鷹山の一世一代のカケでもあったわけです。
ところが、結果は、全家臣が鷹山の改革に大賛成をしたのです。封建時代における「直接民主政治」を行った鷹山の圧倒的な勝利に終わります。この要職たちのクーデターを未然に防いだ鷹山はその後、「積極経営」に乗り出します。米沢における特産品を商品化して収入を拡大する方向に出たのです。手始めに「うるし100万本計画」を打ち出し、「うるし塗り」と「うるしロウ(漆の実から採れるロウ)」を特産品にしました。「うるしロウ」は爆発的に売れ、1年間に6,700両も財政に貢献しましたが、それも長続きはしなかったようです。

「うるしロウ」よりも製法や品質が数段上回った「ハゼロウ」という競合商品が現れ、瞬く間にシェアを逆転されてしまったのです。そのうえ、私財を投じて造った大量生産体制が裏目に出て、藩の財政を立て直すどころか、かえって赤字を増やすことになってしまいました。鷹山は市場経済の恐ろしさを、身をもって体験したのです。

そんな状態のときに「大飢饉」に見舞われます。“泣きっ面に蜂”とはまさにこのことで、米沢藩が存続しているのも不思議なくらいでした。このとき鷹山は自分の心境を「成せばなる、成さねばならぬ何事も、成さぬは人の成さぬなりけり」と詠みました。今でもよく「たとえ」に出されるこの句は、じつは鷹山が地獄の淵で詠んだものだったのです。

しかし、鷹山の商品開発はことごとく失敗します。そこで、家臣からアイデアを募集したところ、「米沢は土地が痩せていて作物には向かない。桑の木ならこの荒地に合う」という結果を導き出したのです。アイデア募集 … 今なら“ベンチャー募集”といったところでしょうか。

鷹山は、さっそく桑の苗を全家臣・農民に配りました。鷹山には絹織物が最終商品としてイメージできていたようです。豊富に採れ始めた桑の葉は養蚕に回されました。また、「かいこの飼い方」というマニュアルを作成して配布しました。合わせて、3年間租税を免除するなど特別措置をとりました。米沢から機(はた)を織る音の聞こえない日はないというまでになり、「米沢織」は全国的な人気をつくり上げたのです。米沢藩の危機脱出の灯火がようやく見つかったのです。米沢藩の財政が黒字になったのは、鷹山が75歳で寿命を全うした、その翌年だったと言います。

鷹山は、混沌としている今の日本経済の中でも立派に通用するリーダーとしてのとるべきマネジメントの方向を示してくれていると言えます。